知能機械概論-お茶目な計算機たち

第60回
生中継「地球最後の瞬間」

フィルタとしてのテレビ

 僕はたぶん「テレビっ子」だったのだと思います。これという番組ならば、明日入試があろうと何があろうと見たものでした。でも、長い時間見るというよりは、これと決めたカルトな番組をいこじになって見るというタイプでした。今ではもう世の中はテレビをあまり見ないという人のほうが珍しいという風潮ですから、「テレビっ子」という言葉も死語になりつつあるのでしょうね。

 テレビを代表とするような、情報を洪水のようにたれ流すメディアは、人類の歴史というスケールでいうと、まだまだ生まれたばかりといってよいものです。生まれたばかりのくせに予想もつかないようなパワーを秘めたメディアというものは、実は人間を大きく変質させようとしているのかもしれません。このテーマは僕には限りなく刺激的に思われます。

 このことはたとえば次のような表現に変えることもできるでしょう。「人間という名前の装置に対する入力に対して、いつもテレビという名前のフィルタを通したとすると、この人間という装置の出力にはどのような変化が現れるか? そして、その装置の内部状態はどのようになっているのだろうか?」

 この設定は少なくとも今日の日本においては必ずしも現実ばなれしたものとはいえないでしょう。生まれたときから、食料だけは機械的に与えられるが、テレビが備え付けられた家に閉じ込められて育てられ、生活している人間を想定すればいいのです。もちろん、このようなシチュエーションは極端ですが、程度の問題です。

 メディアのフィルタとしての性質として、少なくとも自明なのは、メディア自らの存在を危うくする方向に対しては、ブレーキがかかるような作用が自然にあるいは強制的に働くということです。その意味でくいきにくいということがいえます。

 そういう意味で、まずフィルタとしての働きに作用する主体として、テレビの広告料を払ってくれるスポンサがあげられます。スポンサに下りられてしまったらテレビ局は存在できないでしょう、「国営」などの特殊な局を除けば。

 もうひとつは、認可権をもつ国家力の影響が考えられます。これをスポンサよりももっと根本的な権力といえます。認可を取り消されしまえば、放映することは即犯罪となるのですから。ただし、こちらのほうは、間接的あるいは自粛的なものが多いからか、我々はそのような権力の影響を簡単に読み取ることはできないようになっているようです。

過激なマクルーハン

 メディアの向こう側にいる送り手である人や組織、そしてこちら側にいる受け手である我々、これらを含む全体的な構造をとらえるには、この産業社会全体を活性化させている原理までとらえる必要があります。

 ここに、40年以上前に出された1冊の本があります。それが、メディアといえばこの人とも言えるマーシャル・マクルーハンの書いた「機械の花嫁」(文献1)という本です。この本では、広告、テレビ、ラジオ、映画、雑誌などのメディアにおける59の実例がまないたの上にあげられ、メディアの向こうにいる人たちがどのような意図を持ちどのようなテクニックを駆使して大衆の心の中に入り込もうとしているかが痛烈に暴き立てられているのです。

 彼はこの本の中で攻撃対象の企業名や個人名を一切隠していません。その内容はたとえば次のようなものです。

・商品の回転率を上げるために、習慣でも所有物でもあっさり捨て去ることを何とも思わないような心理を形成させるテクニック。
・勝ち犬になってみたいと願う多くの負け犬読者を引き付ける雑誌。
・スリルと興奮をもたらして戦争に駆り立てる新聞。
・流行りやすたりだけを強調し、結局虚無(ニヒリズム)しか残らない広告イメージ。
・名声や教養は、知覚や判断における鑑識力の有無ではなく、消費力の有無を意味するという、広告の基づいている思想。
・セックスとテクノロジーと死が結びつけたパターンを基調とするイメージ。
・無害で健康的な飲物であるというイメージを徹底させようとするコーラ会社。
 大衆の心を惹き付けるために懸命になっている産業社会の破滅への道がマクルーハンにはくっきりと見えるのでしょう。彼は上に示したようなもののおかげで事態は次のようになる/なっていると述べます。

・死を日常生活の範疇(生産工程の中)に入れるのに慣れっこになる。
・消費財の大小をして成功の尺度とするので、人間の性格、才能の多様性は抹殺される。
・月世界旅行もできると約束してくれるのはよいが、その手段を提供してくれる新技術は既に戦争体制に組み入れられており、いざ月旅行の段で、どこにも乗客がいない。
・市場のメカニズムと人間不在の生産技術が、肉体の喜びと生殖機能の分離に基づいて同性愛やファシスト的暴力を育てる。
・スーパーマン(文明人としての日常生活の面倒くさい段取りに我慢できず力ずくで一挙に解決したいじりじり感を具現する心理的敗北のドラマ)がもてはやされる。
・個人の無力感によって人間不在の巨大企業に駆り立てられ、巨大な権力機構と自分とを空想の中で同一化する。

潜在化のテクニック

 マクルーハンの本を読んでまず驚くべきことは、彼が40年以上も前に行った過激な攻撃が現在になってもまったく色あせていないということです。これは、事態が彼の指摘した方向により深刻に踏み出していることを物語っているのでしょうか?

 ただし、彼の指摘したメディアを使った企てが現在も不変であるといっても、やはり、最近のテクニックの変化の大きな特長は、その方法がより巧妙になってきたということでしょう。これは、企業が賢くなって、目先の損得よりは長期的な利潤を考えるようになってきたことにもよると思います。新発売の商品1個を売り付けるよりは、将来的に愛着されるようなイメージを消費者の心に植え付けるほうが大事であるということです。

 また、テクニック的なことに関していえば、直接的にメッセージを送るよりは、抽象的あるいは潜在意識的にメッセージを送る方法が確立されてきたということがいえると思います。潜在意識に忍び込んでくるような広告の技法を多数の実例とともにセンセーショナルに示したブライアン・キーの「メディア・セックス」を始めとするいくつかの著書は、そのテクニックを極端な形で示したものといえます。でも、この本は多くの業界人のバイブル的な存在であったと書いていた人もいるほどです。

日常的な風景の中で

 マクルーハンの本の文脈の延長線上にあり、さらに今日の日本の文化的政治的状況に軽い文体で切り込んでいるのが、山崎浩一の書いたテレビに関わる本です(文献2)。湾岸戦争から始まって「ねるとん」にまでその採り上げた話題は広がっていますが、軽妙で読みやすいなタッチになっています(雑誌「宝島」に連載されていたのだから当然か?)。

 テレビに対する、昔の愛着、そして現在の幻惑/幻滅というものが底流に流れている点で、元テレビっ子の僕と波長があったという点もあることはあるでしょう。しかし、この本が僕を寝させずに一気に読ませてしまったのは、著者のスタンスの中に、マクルーハンの述べる「抹消的事物や宣伝の嵐に対するには、批判的な観察眼によってそれを制御することこそ唯一の解答」というところが確実にあるからだと思われます。

 「きっと僕たちは世界の終りも大画面テレビで見るだろう」とか「人類を救うには人類を滅亡させるしかない」という表現に象徴されるような悲観主義、あるいは虚無主義的傾向は色濃く本全体に流れているという点はマクルーハンの本と同様なのですが、この本を出色なものにしているのは、世界の終りさえも楽しんでしまえという逆説的な楽観主義が常にそれに一体なものとして存在しているところといえます。

 僕はマクルーハンの本を読んだとき、「このように実名であらゆる権力を攻撃していてよくもまあこの本はこの世に存在し続けてきたな」と感じました。もしかして、マクルーハンのような主張をもった本を今日の日本で比較的大きい規模で政治色のない出版社から出すには、このように軽い文体や楽観主義的味付けが必要なのでしょうか? 日本はマクルーハンのシナリオ通りに進んでいる模範的な国のようですから、あながち邪推とはいえないかもしれません。

ヌード写真の裏には

 マクルーハンの指摘を受けるまでもなく、確かにメディアから大量に流されている情報の多くは、性的イメージ、またはテクノロジーのイメージ、あるいはその組み合わせに満ちたものです。性的イメージ、それをヌード写真だけにしぼって論じた多木浩二の本が出版されました(文献3)。

 大著ではありませんが、内容の極めて濃い本といえます。特にこの本で僕が素晴らしいと思ったのは、従来、ヌード写真を批判的に論ずる場合にしばしば用いられていた「女性=被害者、男性=加害者」という図式がここでは取り除かれ、「見る側の男性=被害者」という視点を持っていることです。

 このような、ヌード写真の受け手は両方とも被害者であるという指摘により、ヌード写真を取り巻く複雑な構造に対する新しいアプローチが可能になったのです。この本もまたマクルーハンの主張の延長線上にあるということもできると思います。

 また、この本は粗製乱造される今日のヌード写真たちを批判的に論じていますが、後半のほうで新しいヌード写真の潮流に対してもきっちりと視線を向けているところに好感が持てます。たとえば、ヘルムート・ニュートンであり、あるいはメープルソープといった人達の作品です。

計算機研究にも産業社会の構図が

 今僕が向かっているPowerBookの隣には来たばかりのbit誌5月号がおいてあります。その巻頭言のコーナに東大の和田先生が登場し、「若い人の発表を聞いていても、ああ、これは昔のあれだ、と思うことが多い」と書かれています。

 日本の計算機研究者には流行りすたりに敏感なところがあるということはよく言われることです。それ自体はそれなりにいいことなのですが、流行したら主体性なく飛び付くということを繰り返し、その結果消化不良になってしまうと確かに問題といえるでしょう。

 古いものでも何でも新しそう流行りそうに見せて幻を振りまくという手法が、そういうことと一番無縁であるべき研究の場において定着するようなことは、それこそ、敗北宣言そのものといえましょう。

 ビルの壁面や車の横に巨大テレビをつけることを発明する日本では、すでにメディアは環境そのものに近くなってきたといえます。だからこそ、メディアで遊びつつも、マクルーハンの「マ」の字でもときどき思い出さないと、どの場面や状況でも根こそぎ崩壊してしまうようなことが起きてしまうのでしょう。

参考文献

(1) マーシャル・マクルーハン:機械の花嫁、竹内書店新社.
(2) 山崎浩一:リアルタイムス、河出書房新社, 1992.
(3) 多木浩二:ヌード写真、岩波新書, 1992.