知能機械概論-お茶目な計算機たち

第65回
アヴァン・ポップで
仮想空間から
逃げ出せ

virtualとreal

 「神はrealだ、もし、intと宣言されていないのならば。」という英語の冗談があります。ここで、intのほうの意味は、プログラミング言語における型宣言に出てくる「整数型」のことです。一方、realのほうは、二通りの意味を持たせており、これこそが、この文を冗談たらしめているといえます。これ以上解説するとヤボといわれそうですが、要するに、文の前半部を読むときには、realは「実在する」という意味なのであり、後半を読むと「実数の」という意味にパッと変わるのです。

 プログラミング言語的には「実数の」という意味をもつ単語であるrealは、intと対をなすいうことができます。一方、「実在する」という意味をもつ単語としてのrealと対になりうるのが、virtualといえましょう。このvirtualということばは、単に実在しないということだけでなく、実在するように人間には見えるという意味をも含んでいるところが、おもしろいところです。

 光学的な使いかたを例にとればよくわかります。real imageといえば「実像」のことであり、virtual imageといえば「虚像」のことです。理科で習いました。虚像とは、人間には、そこにあるように思えてしまうのだが、実はそう思っているところに実在するということではなく、そこに見えるように光学的に仮想的な像を結ぶということです(わかったようなわからないような説明で失礼)。

 virtualということばは、計算機関係では比較的よく使われ、仮想という日本語訳がつけられます。仮想アドレス、仮想メモリ、仮想オペレーティングシステム、仮想マシンなどなどです。これらは、いずれも、プログラム、ユーザ、プロセッサなどに対して、表面的に見える部分の下に階層的にもうひと皮分だけ別の層を用意することを意味します。これにより、都合のよいように表面的には見せることができるようになるわけです。もちろん、複雑さやスピードなどの点からはマイナス要因となりますが。

仮想現実ということば

 virtualとrealというこの2つの対となる言葉をrealのほうを名詞にして結び付けると、実にホットなことばのできあがりです。vitual reality、バーチャルリアリティ、(素直に訳して)仮想現実です。ここで、どうして実在しないものと実在するものが結び付くのか?、実在することと実在しないことの差は何なのか?、などの哲学の認識論の領域に属する話がわいてきそうです。でも、サイバーパンク、ハッカー、出たツイ、SFII'、ギャラIIIなどのキーワード群を軽々と消化できる(素養のある)読者のかたがたですので、ここではとくに寄り道する必要もないのでしょう。

 でも、ひとつだけ、もの申したいと僕が思うのは、virtual realityということばの日本語訳にする場合や、virtual reality的な概念や研究のことを呼ぶ場合に、「人工現実感」、よくて「仮想現実感」ということばを使いがちなことに対してです。

 このようなことばは、せっかくもともとのことばがもっている、virtualとrealという対極的な概念を結び付けたことによるおもしろさが消えてしまっているだけでなく、「人間に対してその5感(あるいは6感)に対してもし自由にそして理想的に刺激を加えたならば、その人間にとってはそれが現実そのものになるのだ」というサイバーパンク的あるいは認識論的おもしろささえも失っていると僕には思えるのです。

 現実のように見えておもしろいですよというのではなく、ノイズやスピードの点で問題がなければ、人間にとっての現実そのものを本当に変えてしまう可能性があるといったような根本まで踏み込んだテーマを提起していると思えるのです。

 実は同じような疑問を投げかけている人を最近発見しました(文献1)。そこでは、もう少し厳密な議論をしています。artificial realityやvirtual realityということばを使い始めた人の主張、artificial realityということばはアメリカではあまり使われていないという事実、英語の日本語訳としての問題などがあげられています。そして、さらに、このようなことばが使われてきたのは、この分野の第一人者の教授が使用してきたからなのだとしています。

仮想空間に漂う

 ある晴れた日の昼下がり、僕は若い衆に連れられて、「仮想現実」を体験しに行ったのでした。お邪魔した先は、名古屋工業大学機械工学科藤本研究室というところです。大学の工学系としてはごく平凡な研究室の中に、マッキントッシュにつながれた、お値段にして1000万円を越すという仮想現実装置「MicroCosm」なるものが実在していました。

 どのように仮想空間で遊んだかいうことを説明しましょう。左手に、スキーのゴーグルをごつくしたようなもの(アイフォン)を持って目にあてがいます。ゴーグルの横から棒が下に突き出ているのでそれを持てばいいのです。アイフォンの裏側には液晶テレビのようなものが張り付いており、左右の画面を少しずらしていますので、マックで作り出した画像が立体的に見えます(立体視)。一方、右手には電線(光ファイバ)がはい回っているスキー手袋のようなもの(グローブ)をします。システム構成を図に示しましょう。

(図)
CAPTION:仮想現実システム

 これを付ければ、あなたも仮想空間を漂ようことができるのです(写真を見てください)。この人は何をやっているのかというと、実在しない積木を実在しない空間の中であっちに持っていったり、こっちに持っていったりしているのです。アイフォンの中にはちゃんと自分の右手も映っており、自分の手や指を動かすとそれをグローブのセンサが検出して、そのとおりに仮想空間に投影してくれるのです。むろん、いすにすわったり、歩いたりすると、背景もちゃんと変化します。

(写真)
CAPTION:仮想空間をさまよう馬鹿もの

 いや、あえて、この無邪気で憎めない若者が行っていることをもっと正確に記すことにしましょう。この若者は、順番待ちしているあとの人が番が回ってきたときに困るようにと、簡単にはみつからないような場所にと一生懸命にいくつかの積木を移動しているのです。

 ちなみに、みつからない場所とは、たとえば次のようなところです。簡単な順にあげます。

1) 最初、体験を開始する体の位置
 あとずさりすれば、体の中からグニュっと登場します。
2) 仮想的な机の下の死角になるところ
 しゃがんでのぞき込めば見えます。
3) 背の届かないような高いところ
 背の低い人には試練となります。ジャンプするのでしょう。
4) 地面の中
 地面もきちんと仮想的にありますので、ヌメッと押し込むと後の人が探すのはきわめて困難になります。

 まあ、そんなこんなで、ただただ遊んでいたのですが、というよりは、それだけでなく、研究室にどんなマシンがころがっているのかと皆ブラブラ探し回ったり、冗談ばかり言ったり、とにかく、お騒がせなご一行様だったのでした。

 もちろん、接待をしてくれた藤本研究室の八木橋氏は、漂ようバカどもを見物するのが仕事だったわけではありません。こつこつとアンケートをとったり、親切に解説をしてくれたりしました。今回、彼は、「3Dマウス」と「握ったというジェスチャで物体をつかむハンド」と「より人間に近い指先によるジェスチャで物体をつかむハンド」の使用感を比較するためにデータをとっているのでした。

アヴァン・ポップ

 仮想現実に関する今回見物したような現在進行中の研究では、人体の動きを検出し、それをもとにして計算機内に再構成した世界像を、たとえば人の視覚に対して画像として見せて「現実感」を与えることにより、仮想現実なるものを作り出そうとしています。

 しかし、もう少し深いレベル、意識だとか欲望だとか行動だとかという我々の生活そのものに近いところにおいては、実際のところ、仮想現実そのものが実現されているのではないかという一見妙ちくりんな仮説が実はありうるともいえるかもしれません。

 そして、そのような意味、つまり、仮想現実としての浮世=現実に生きることを問題意識(アンチテーゼ)としてとらえ、そこからの脱出をうたいあげる文化的なムーブメント、それこそが、ラリィ・マキャフリィの提唱する「アヴァン・ポップ」(文献2,3参照)なのです。

 アヴァン・ポップとは、語源的には、ポップではあるが、かつアヴァンギャルド(前衛的)なもののことです。そうはいうものの、もともと、どんなに前衛的過激なムーブメントであっても、結局は現に存在する流通メカニズムのおかげで、お客さんはきちんと存在します。したがって、そのメカニズムをきちんと構成維持することになり、そのムーブメント自体のパワーが失われてしまってきたという自己矛盾があります。

 極端な例ですが、ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルなどは作品自体は前衛的であることには違いないのですが、金が儲かるなら、あるいは有名になれるのならば何でもやるといった、とんでもないミーハーでした。

 しかし、90年代の新しいムーブメントであるアヴァン・ポップは、仮想現実技術を始めとするさまざまなテクノロジーの進化に基づく我々の生活の革新を源としているところに大きな特長があります。

 1980年代から今日に至るおもに情報関係のまったく新しい技術たちはわれわれの世界を大きく変えてしまったという事実がまずあります。現実と仮想世界との逆転ということさえおき始めているのではということです。

 たとえば、ディズニーランドはそれを取り囲む世界より現実的であり、映画や広告の中の人間たちは現実の人間よりもずっと生き生きしているように見えます。それにくらべ、この現代の浮世は実は牢獄なのであり、実は、みなが誰かさんに金を払い続けることにより、誰かさんは我々を無為な娯楽の中毒にさせているのだと、マキャフリィはかみつきます。今こそ、W.S.バロウズの小説「ソフトマシーン」の中のフレーズ「現実スタジオ強襲で宇宙を撮り戻せ。」ということばが生まれ変わるというのです。

 この仮想現実から抜け出すためには、ポップカルチャー文化を理解し愛しており、しかも、それがわれわれの現実との関係を歪める点のみを憎むような、アバン・ポップなアーティスト、ポップカルチャー・テロリストが必要だと主張します。敵は、ポップカルチャーそれ自身ではないのです。

ねこじるうどんってなんですか

 アヴァン・ポップは狭い意味では小説の領域でとらえることもできますし、広い意味では、音楽や映画なども含めてとらえることもあります。ただし、共通してあらわれるのは、さまざまなテクノロジーによって多様になってきた各個人個人のリアリティを表現するためのアヴァンギャルドな主題や形式や隠喩をポップな形で保持しているというところです。

 ムーブメントとしてのアヴァンポップのおもしろいところは、仮想現実的な技術によって、作られてしまったこの世の中=仮想現実を仮想現実的な手法でぶちこわそうとしているところでしょう。

 小説について作者をいくつかあげますと、マーク・レイナー、ハロルド・ジャフィ、キャシー・アッカー、リック・デマリニスなどがあげられます。僕もいくつか読み、また、読んでいる最中のもいくつかありますが、まあ、興味ある人のお楽しみとでもしましょうか? ちょっと、本誌というか、本連載というか、本著者にそぐわないので、一切、ここでは触れないでおくことにしましょう。文献2)と3)はいろいろな作家の短編集となっているのでとっつきやすいと思います。

 文献2)によれば、舞の海、松本人志、作家・大槻ケンジ、ねこじるうどん(これはいったいなんだ?)、ソニック・ユース、プリンスまでもが、アヴァン・ポップなのだそうです。これは極端すぎますね。ここまで、広げると、うさんくさくなります。せめて、デヴィッド・リンチやウィリアム・ギブソン程度までならば許せるというものです。

参考文献

1) 下野隆生、"AR,VRは「人工現実」「仮想現実」と訳せ"、日経エレクトロニクス、No. 566, pp.226-227, 1992.
2) ラリィ・マキャフリィ、「アヴァンポップ宣言」、SFadventure秋期号、p. 3、徳間書店、1992.
3) ラリィ・マキャフリィ、「ピンチョン以後のポストモダン」、ポストモダン小説:ピンチョン以後の作家たち、pp.248-267、白馬書房、1991.