知能機械概論-お茶目な計算機たち

第86回
インタラクティブ・エボリューション

究極のマシンで

 計算機のスピードは上がっていく一方で すが、このところスピードの上がりかたは 若干ゆるやかになってきたかもしれません。 確かに計算機アーキテクチャはこの10年ぐ らいの間、あまり革新的な変化はとげてい ないといってよいでしょう。もしかして、 もうすぐ計算機のスピードは頭打ちになり 飽和してしまうのでしょうか?

 もちろん、この疑問には、NOとはっきり 答えることができるでしょう。半導体素子 のかわりに将来は超伝導だ、光だと言って もいいでしょうが、それより前に、アーキ テクチャ上の大きな革新が期待できると思 います。それが超並列マシンです。

 超並列マシンは、プロセッサを多数個、 たとえば、数万とか数十万個接続して構成 するものです。単にハードウェア的にプロ セッサをたくさんつなぐだけならば、理論 的にそう難しい問題ではないでしょう。

 しかし、問題はソフトウェアです。計算 機に与える問題をどのように記述し、どの ようにコンパイルし、どのように分割して プロセッサに与えるか?...というところを なんとかしてクリアしていかねばならない のです。

 ここでは、この大難問は他人ごとのよう にあっさりと横にほっておくことにしまし て、「ついに究極的に速い計算機ができあ がりました。さて一体この計算機に何をさ せたら面白いのでしょうか?」と質問に対 して答えてみることにしましょう。まあ、 いってみれば、人工生命の味付けをふんだ んにきかせた夢物語です。

壮大なドラマ

 計算機のスピードが速くなるということ は、計算機内部の仮想世界に存在する時計 の針の回転速度が速くなるということを意 味します。究極的な超高速マシンの中では、 あっという間に年月が過ぎていきます。  ビデオカメラを固定して一日撮り続けた テープ/フィルムを高速に再生するとひま わりの花がけなげに太陽を追いかけている 姿を見ることができるように、時間軸を変 えると見えていたものが見えなくなり、見 えなかった別のものが見えるようになりま す。

 超高速マシンで世の中を再生してみると 何が見えてくるのでしょうか? 宇宙や惑 星のダイナミックなドラマを見ることがで きるでしょう。また、視点を地球上に合わ せるとさまざまな生物種のドラマを見るこ とができることでしょう。これが進化のド ラマです。

 超高速マシンでしか見ることのできない このようなドラマ、それは従来のことばで いえばシミュレーションということになる のでしょうが、格別に面白いぞと僕は考え ています。

「インタラクティブ・エボリューション」

 適当なことばを思い付かなかったので、 シミュレーションということばを用いてし まいましたが、あまり適当ではないかもし れません。なぜならば、通常、シミュレー トするということばは、現実の何かをまね してみるという意味で使われるからです。

 確かに、現実の世の中を再現するという 一面はあるとはいえます。そして、決定論 者、運命論者ならば、シミュレーションそ のものというかもしれません。しかし、「今 のこの状態はたまたまこうなったというひ とつの結果にすぎない」という側面はいろ いろなものごとに関して多かれ少なかれあ るでしょう。

 社会的、文化的、政治的、宗教的な側面 など、もろもろの側面に関して、あるいは、 人間という種、人間のもつ知能に関しても、 もちろん普遍的本質的な部分はある一定割 合あったとしても、それ以外の偶然的要素 に基づく部分も意外に多くあるのでないか ということです。

 そう考えると、計算機の中で昔のある時 点からシミュレーションを開始したとして も、1回試したぐらいでは、現在の世の中 に似た状態に至る、あるいは我々のような 人類が誕生する可能性はむしろ少ない、あ るいは、ほとんどありえないのではないか ということになります。現実の歴史をなぞ っているのではないという意味で、シミュ レーションということばは適当とはいえな いということです。

 ここで説明しようとしている概念を表す ぴったりのことばを考えました。それは、 「インタラクティブ・エボリューション」 (Interactive Evolution:インタラクテ ィブな進化)です。通常意味される「進化」 は、根から種が出発してときどき枝分かれ して進んで行くわけですが、インタラクテ ィブ・エボリューションでは、そのような 単調な方向性をうち破ります。進化させて いくどんな時点においても、そこで時間の 流れを止め、また過去のある時点から再開 することができるのです。

 しかも、同じ条件で始めたとしても、場 合によってはまったく違う進化の流れにの っていることもしばしばあるわけです。実 はこのことが単なるシミュレーションにと どまらない興味深い点でもあります。ある ことがらが必然的ではなくたまたまそうな ったということもわかってきます。

 進化の上にのっていることにはちがいな いのですが、進化の進み具合を見ながら、 いやならばまた過去のどの時点からもやり 直しがきくという、きわめて都合のよい歴 史です。そういう意味をあらわすことばと して、最近流行っていることばのようです がインタラクティブとつけました。

アミューズメントとしての性格

 すべてのパソコンゲームはシミュレーシ ョンであるということができます。どんな ゲームでもある特定の状況を想定した上で、 その状況や文脈を計算機内の0や1の列に よって、シミュレートしていることにはち がいないからです。

 そして、インタラクティブ・エボリュー ションの基本的な性格はアミューズメント であるともいえます。誰もが楽しめる遊園 地のようなイメージでしょう。何が出て来 るかまったくわからない夢の国です。しか も、参加する人はネットワークにより世界 を共有しています。

 しかし、ある進化系列上にあるある一時 点のある一地点に自分はいるわけですから、 自分以外の人は基本的には仮想的な生物で あると考えてよいでしょう。むろん、特定 の進化系列上でのある場所と時刻を決めれ ば、友人と待ち合わせることもできます。

 インタラクティブ・エボリューションの 実現にはまだまだ時間が必要でしょう。理 論的に固めなければならないことが我々の 前に山積されています。しかし、このシス テムが本質的にもつ誰もがのめりこむよう なアミューズメント性が、まだシステムが 未完成であっても、人々をひきつけ、産業 としても拡大していく機動力となります。

新しい知能との共存

 楽観的に考えれば(ダーウィンにその源 をおく突然変異や自然淘汰などの原理以外 に、埋め込むべき種々の原理が今後明らか にされれればという意味です)、計算機の 中でインタラクティブに種を進化させるこ とにより、人間の知能を越えるような新た な知能というものも自然に発生させること ができるでしょう。

 人類がさらに進化したものとしての知能 か、あるいはもっと根元のほうから今の人 類とは異なったものに枝分かれした結果産 まれたものかはわかりませんが、そのよう な知性というものは、もはや人類の頭では 理解することができないでしょう、我々の 知能を超越しているのですから。

 しかし、少し考えてみれば、インタラク ティブ・エボリューションということばで 示されるシステム自体がすでに、そのよう な新しい知能そのものであると考えられる と思います。それは2つの意味においてで す。

 知能とは何かと考えたときに、シミュレ ーションする能力そのものだと定義するこ とができます。これをするとこうなってこ うなるから駄目だ、とかああすればああな るからあれをやったほうがよい、などとで きることがすなわち知能であるということ です。そういう意味でいえば、インタラク ティブ・エボリューションとはまさにその 定義そのものとなります。

 また、インタラクティブ・エボリューシ ョンとは時間や空間という制約、物理的束 縛をたちきった世界を想定して、自由に進 化を行なわせるものですから、実はそこで 人類の次に生まれ出た知能体は、どんなも のであろうとも進化系列において人間の次 に来るものという意味において新しい知能 そのものにまちがいないということです。

 人類は別になにも恐れることはありませ ん。それどころか大変に頼もしい仲間の到 来を喜ぶべきです。この環境の中で生きる ために、アメーバや細菌類などとも我々は 現在だって共存共生しているわけですし、 そこに強力な助っ人が登場してくれるとい うわけですから。しかも、実際の進化の歩 みの遅さをがまんして待つことなしに大急 ぎでやってきてくれるのです。

 この共存している状態を数学風に表現す るならば、ひとつの大きな問題を部分問題 にわけ、それぞれを人類や新知能体を含む 各種の生物が分担して解いているといった ところでしょうか。

取り扱い注意

 日本では進化という概念は比較的すんな り受け入れられ、また興味を持っている人 は多いらしいのですが、キリスト教が比較 的勢力をもっている地域では、ここで行な っているような進化論をベースとするよう な話はするのに苦労するかもしれません。

 たとえば、アメリカのルイジアナ州(少 年を犬猫のように撃っても無罪になったと ころです)には、公立の小中学校では、進 化論と天地創造を同じ時間だけ教えなけれ ばいけないという、僕にとってはまったく 信じられない州法があるそうです。

 事実関係としては矛盾する2つのお話を 同時に教えられた小学生や中学生はどのよ うに受け止めるのでしょうか? より深い 洞察力をもつように鍛えられたり、論理的 な考えかたと宗教的な考えかたの切り分け 方を学べばよいのですが.。

 また、進化論的な考えは俗っぽい話や危 険な話にむすびつきやすい側面ももってい ます。世の中の一時的な風俗現象、社会現 象を種の進化という話に根拠もなしに安直 に結び付け、結果的には自分の意図する一 定の方向にもっていこうとする本がよく見 られます。しかも、よく売れるのです。

 進化論的な考えというのは、ダイレクト に良い/悪いの価値判断につながるもので はなく、また、もし何らかの尺度として用 いる際にも、ほかのさまざまな基準とのバ ランスがどうしても必要なのです。極端な 話、〜のような人は人類の存続にとって望 ましくないので子供を作らないほうがよい、 などというような暴論の土台として使われ てしまうからです。

そして人類は悟る

 インタラクティブ・エボリューションが 人類に与える影響のうち、精神的な面への インパクトは計りしれないものがあると思 います。毛利さんや向井さんの場合は、宇 宙が素晴らしいというイメージ以外の何か をまだ僕には教えてくれないようですが、 過去の宇宙飛行士の多くは悟りというか、 人生観が変わるような何かを受けたという ことを語っています。中には本当に宗教家 になった人もいましたね。

 人間はもともと自分のまわりとかせいぜ い数百メートル以内程度で活動するように 体も頭も出来ているのでしょう。その活動 空間を一気に宇宙にまで広げることにより、 宇宙飛行士の頭脳はその思考の枠を大きく 広げ深い精神空間をもつようになるのだと 思います。

 時間に関しても同様でしょう。10分後、 明日、あるいは、せいぜい5年後までを考 えるのに慣れている我々は、時間軸を自由 に行ったり来たりすることにより、とてつ もない変貌をとげるかもしれません。ミク ロなレベルの事象にとらわれないより深い 精神性を獲得することができるのかもしれ ません。きっと、そんな安っぽいことばで は表せないような「悟り」が起こるのでし ょう。

 そのときこそ、我々が真の意味での「新 人類」になるときかもしれません。