知能機械概論-お茶目な計算機たち

第53回
電子の海に沈むアンディ・ウォ−ホル

ウォ−ホル中毒

 この夏はアンディ・ウォ−ホルに入れ込 みすぎてしまいました。その結果、夏の前 にこれはやりたいなどと高校生のようにい ろいろと考えていたことが犠牲になってし まったのでした。彼の活動が多様なだけに あらゆる方向に発散し、ウォ−ホルの作っ た映画、彼の死後彼に関して作られた映画、 に関する本、彼の展覧会パンフレット、彼 に関する雑誌の特集、彼に関する単行本、 彼の関わったロックグル−プなどなどには まったのでした。。

 とにかく奥深いものが、どろどろと底無 し沼のように広がっているのです。そして 今考えてみると、実は単なるポップア−ト に興味を惹かれているというのではなく、 1960年代という時代、の特にニュ−ヨ −クあたりに象徴される時代の雰囲気その ものに強烈に魅せられているようなのです。

 ウォ−ホルの作品や彼自身を中心として とそこから放射状に広がるユニ−クな人々 の連なり、そして、全体として生まれる時 代の雰囲気、僕はその中心をとらえようと しますが、ふと気づくと時代の流れの遠心 力に振り回され、また、何とか中心に戻り、 ふと気づくと、また..ということを何度も 繰り返していたのでした。

 そうこうしている間に僕はきわめて興味 深い確信を得てきたのでした。彼は実は不 幸にもあまりにも早くあまりにも深く、 「情報」の世界、電子の海に飛び込んでい ってしまったのだということを。

工場で作られる芸術

 善かれ悪しかれ、彼は今までの芸術とい うものの概念をすっかり変えてしまいまし た。そのひとつの特長が機械的な生産です。 彼は作品を作る場所、普通ならばアトリエ と呼ばれるところを工場と名付け、そこで 創作ではなく「生産」しました。もともと その場所が工場だったところを買い取った ので、そのまま工場と呼んでいたのかもし れないと僕は思いますが、いずれにせよ象 徴的な名づけであることには間違いありま せん。

 機械的な生産というのは、作品自体が機 械的自動的にどんどん作られるということ を意味していますが、それだけの階層の話 ではありません。作品ひとつをとっても、 そこには、大量生産、つまり、連続・複製 が見られます。彼の作品で有名なキャンベ ルス−プ缶であっても、マリリン・モンロ −でもひとつのパタ−ンが色を変えて何個 も配置されたものが基本となっています。 パタ−ン自体は写真そのものです。

 ところで、情報の大きな特性のひとつが この複製が自由自在というところにありま す。0や1で表される情報は複写してもコ ピ−前のものと後のもので違いがまったく ないということです。これは、きわめて重 要な情報のもつ特質であり、我々の価値観 も今後この特質によって大きく揺さぶられ るのではないかと思われます。この特質は、 唯物史観、あるいは機械論的世界観と結び つくと究極的には、、脳のニュ−ロンパタ −ンをそのままコピ−すれば、自分と同じ 人間がいくらでも計算機上に実現されるの ではないかという考えに行き着きます(自 分がいろいろなマシンの中にいるのです)。

 別の角度から話してみましょう。マッキ ントッシュではマウスで操作がすむと言わ れますが、実は慣れてくると案外としょっ ちゅう行なうマウス以外のキ−操作があり ます。それは、アップルキ−と別のキ−と の組合せです。特にC、X、Vがよく使わ れます。この組合せでいわゆるカットアン ドペ−ストが実現されます。たとえばワ− プロで文章を、あるいはお絵描きソフトで パタ−ンを複製することが頻繁に行なわれ るのです。これこそ、ウォ−ホルの作品の きわめて原始的な姿であると考えられます。 しかも、誰もが自然に(しかも実は情報の 本質的特質を生かして)やることなのです。

 ウォ−ホルの示した芸術作品は、情報と いうものを特質を生かしたきわめて先進的 なものでした。しかし、彼は計算機にはあ まり縁がなかったようですが、彼がそのよ うな作品を生み出したのは今から30年も 前ですからしかたがありません。実際若い 頃の彼に計算機を渡したらという小さな期 待感はあります。彼は、こういうことを言 っています、「僕はできることなら機械に なりたい」。

芸術はメディアである

 ウォ−ホルはマスコミ嫌いですから、何 をいってもほとんど人を小馬鹿にしたよう な、チグハグな答えが返ってきます。した がって、彼の発言も冷静に分析しなければ 本当のことはわかりません。一番極端な例 をあげましょう。彼はいろいろな人に対し て、「すばらしい!」と連発しますが、そ れはどうも社交儀礼のようでして、その後 で、「なんだあのくずは」などと取り巻き にいうことが少なくなかったようです。

 そういう彼の発言ですが、次にあげるよ うな発言はかなり彼の本質を表していると 考えてよいと思われます。(何を作品で伝 えようとしているのかと聞かれて)「別に 伝えるようなたいしたものは僕には何もな いよ」あるいは「作品の表面だけを見てく ださい」などです。彼は無思想のように見 えます。

 となると、彼の作品というものは単なる メディアと変わらないのではないかと思わ れてきます。たしかにその通りなのです。 交通事故死のシリ−ズでも死刑台のシリ− ズでもマリリンモンロ−でも基本的には、 その素材そのものがわれわれに語りかける のであって、ウォ−ホルの声はまったく聞 こえてきません。

 彼は絵画、いわゆるポップア−トが有名 ですが、他の分野でも実はきわだっていま す。映画も彼なりのユニ−クなものを多数 作成しています。そこにおいても、彼はメ ディアに撤しています。基本的には脚本も 何もないのです。一番典型的なのは、一部 では有名な「エンパイア・ステ−トビル」 です。そこでは、単に摩天楼、エンパイア・ ステ−トビルをカメラを完全に固定したま ま、24時間も延々と撮り続けているので す。同様の映画に「食べる」や「眠り」な どがありますが、内容はタイトルそのもの です。

 ここで、思い出されるのは、かのカナダ の学者マ−シャル・マクル−ハンの有名な ことば、「メディアとはメッセ−ジである」 です。彼は、何を伝えるかよりも伝える媒 体そのものこそに意味があると主張してい ます。メディアというものに、はじめて焦 点を当てたのはマクル−ハンでしたが、そ れを芸術をも含む領域で同じころに定義し たのが、ウォ−ホル、その人であったので す、彼オリジナルの方法で。

 しかし、このように言ってしまうと、彼 の作品の芸術性、少なくとも通常の意味に おける芸術性などどこにもないのではない か?と思われるかもしれません。それは、 まちがいです。彼の天才はどこにあるかと いえば、まず、素材をどこから選ぶかとい うこと、そしてそれをどのような偶然のゆ らぎ(技術的誤差)の中で反復、あるいは 持続するかというところにあるのです。

 後者の特質は偶然性そのものといっても 良いのですが、数多く作品に接していると、 そこには際立ったたぐいまれな感性による ものとしか思われない統一的な何ものかを 受け止めることができます。

プリッグス第1号

 彼自身の無思想性は彼自身の非常なる人 間の純粋性から生まれてくるのでしょう。 それは、異常なる潔癖といってもいいかも しれません。彼は人と手が触れるとビクっ としたとまで言われています。ただし、こ の潔癖というのはあくまで生理的なもので あって道徳的なものではないことに注意し なければなりません、このことは次の話に つながるのですが。

 彼の作品の透明性はここでも情報の透明 性を僕に思い起させずにはいません。情報 そのものはきわめて無色透明なものです。 シンタクス(文法)自体は不随しますが、 それに意味づけするのは人間であって、情 報そのものは本来無味乾燥なものです。

 さらに、今アメリカそしてどうやら日本 でも流行ってきているプリッグスというも のにも、つい関連性をみつけたくなります。 プリッグスというのは、毎朝シャンプ−を し、体臭を常に気にし、何度も何度も衣服 を変えたり、手を繰り返し洗うことを人生 の大きなテ−マと考えているようなまった くばかげた人々のことです。

 もちろん、そういう人々それぞれになぜ そんなことをするのか聞いたら、千差万別 な答えがくるでしょうが、背景にはこの情 報化社会における情報の本質的な潔癖性と いうものがあるような気がしてなりません。 そしてウォ−ホルは元祖プリッグスなので しょう。彼自身の「機械になりたい」とい うのも、むしろ背景はこちらのほうにある のかもしれません。

 プリッグスにもいろいろあるのでしょう が、嗅覚を一律な清潔そうな匂いで一元化 しようというのには大きな問題があるよう に感じます。なぜならば、われわれの嗅覚 は脳味噌の中にきわめて豊かなイメ−ジを 与えてくれるものだからです。これを一律 化することにより、脳の中の情緒に関する 機能がダメ−ジを受けるのではないかと思 うのです。

観客の半分は席を立った

 人というのは純粋であればあるほど、過 激で暴力的な傾向が強まるのではないかと 思います。純粋、感性、自由などと、暴力、 アナーキー、過激というものを結び付ける のは強引すぎるでしょうか、僕にはごく自 然なことのように思われます。ウォ−ホル は純粋でかつ極めて過激な人でした。しか し、彼自身が何か特別に過激なことをやる というのではなく、他人に対して、「どん なことでもやってもよい」という態度を貫 き、空間を提供し、世の中に売り出したの でした。

 したがって、彼のファクトリにはいろい ろなジャンルの芸術家の卵たち、それにチ ンピラたち(多くの人はチンピラ芸術家だ ったかもしれません)が出たり入ったりし ていました。そして、想像を絶する空間が 形成されていたのです。あるダンサ−など はラリった状態で踊りながら、空中に飛び 出してそのまま地面に激突死しました。ア ンディはひとこと「カメラを回しておけば よかった」と言ったそうです(凄い)。

 なお、このころ交流のあったアーティス トの中には、ジェーン・フォンダ、ジョ ン・レノン、オノ・ヨーコ、ミック・ジャ ガ−、ジム・モリスンなどがいました。そ の多くが、まだ、それほど有名になる前だ ったようです。

 何でもありありの世界であるファクトリ の雰囲気を味わうことは実はそう難しいこ とではないのです。彼の映画の多くは、フ ァクトリ、あるいは、その筋の人には知ら れていたチェルシーホテルで、ほとんどス トーリーもなく、カメラがとらえたものな のですから。見事な素材選択とゆらぎ(ハ プニング)を楽しむメディアとしての映画 が彼の作り出した世界の暴力性、非日常性 を如実に描き出しています。

 「チェルシーガールズ」という彼の映画 を見ました。僕にとっては衝撃的な映画で 4時間近くがあっという間にすぎてしまい ました。しかし、観客の半分近くが、耐え 切れずに席を立ってしまいました(有料だ ったらもっともっとがまんしたでしょう が)。映画は左右のスクリーンに順番に1 2個の無関係なテーマのフィルムが時間的 にオーバラップして上映されるものです。 テーマといってもあってないようなもので す。半分ドキュメンタリですし、ヤクのせ いもあり、役者が急に怒り出したりします。

 実はちょっと説明できないほど過激なの ですが、一本の映画の中にはリアルなドラ マが盛りだくさんに入っています。しかも、 ハプンニング的な緊張感は4時間ずっと持 続するのですからすごいものです(へとへ とにはなりますが)。

「情報=暴力」説

 このようなウォ−ホルの純粋ゆえの過激 さは、ご想像のとおりここでも、実は情報 そのものの固有な特質とほとんどぴったり 一致するように思えます。しかし、残念な がら、なぜかとか、どのようにとかを理屈 立てることは、今のところできません。た だ、情報化社会、あるいは情報そのものの もつ暴力性をたぶん表しているのだろうと いう例をあげることはそう難しくありませ ん。

1. ものを捨てたり破壊したりする場合、 多少なりとも後ろめたさのようなものはつ きまとうが(年のせいか?、いや物質の有 限性に基づく本質的なものだろう)、情報、 たとえば、ファイルを消すのにそのような 感情はつきまとわないばかりか快感さえ感 じる。

2. ネットワーク上での議論において、現 実の会話に比べて、相手に対する配慮が欠 けるように見える場合が少なからずある。

3. 情報に関する法律は明かに現実に遅れ、 何でもやり放題という状態に近い。これか らも、そのような状態は続くようにも思え る。

 ところで、ウォーホルの「純粋性= 自 由への志向=何をやってもよい=過激」と いう方向性は悲劇的な結末を迎えることに なります。彼の映画にも出ていた狂信的な 女性に狙撃されるという事件が起きたので す。これも、彼の主義からいえば当然とも いえる結末でした。幸いなことに一命はと りとめましたが、一生その傷に苦しんでい たようです。

 しかし、残念ながら、彼の芸術家として の生命はその事件で終ってしまったように 僕には思われます。彼はそれまでのファク トリを閉鎖し、チンピラをシャットアウト し、それだけでなく、有名人入りしたい、 お金持ちになりたい、という気持ちむきだ しの人生を歩むようになるのです。もちろ ん、この事件で彼の生み出す作品がそれ以 降まったくだめになったなどというつもり はありませんが、それ以前の彼の作品を越 えるものはほとんどなくなったといってい いと僕は思います。事件の起こった必然性、 あるいは方向転換の必然性を見ると、何と なく、情報社会の行く末と関連づけたくも なりますが、それはたぶん考えすぎでしょ う。

=====アンディ・ウォ−ホルの命=======
彼の感性は電子のように純粋で透明で暴力的だった。
彼は感情をもつことを嫌がり電子に近づこうとした。
そして電子の時代が近づくと簡単に死んでしまった。
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参考文献

1)ピ−タ−・ジダル「アンディ・ウォ− ホル」、PARCO 出版、1987.
2)ウルトラ・バイオレット「さよなら、 アンディ」、平凡社、1990.

(囲み記事)

アンディ・ウォ−ホル(1928-1987) の略歴(主観たっぷり)

 革新的な芸術家であったが、彼の映画に も出演したことのある女性に1968年に狙 撃されてから、芸術実業家、もしくは芸術 社交家となる。ポップア−トの巨匠である。 マリリンモンロ−などのスタ−のシルクス クリ−ン作品が有名。ニコ、イ−ディ・セ ジウィク、メアリ−・ウォロノフなど魅力 的な女性がまわりに多数いた。絵画だけで なく映画もすばらしい。しかし、台本もな いし第一本人がその場にいることも少なか った。商業的に成功すれば絵画をやめ映画 監督になっただろう。「映画のほうが楽で いい」と本人も言っている。近くにいた男 性の何人かがAIDSで死んだが、彼の場 合どうもそうではなく本当に病院の医療ミ スによる合併症で死んでしまったらしい。 しかし、飲むタイプのヤクを少なくとも 60年代は常用していたので体もボロボロ だったのかもしれない。日本では晩年、 CMで”グンジョーイロ”などと言って笑 わせていた。髪は若い頃からカツラという 噂。とにかく、狙撃事件までは感性の人、 それ以降は俗物の人だった。