知能機械概論-お茶目な計算機たち

第83回
アナーキテクト宣言

Apple IIはパンクだった

 最近は「パンクな」マシンをみかけなく なってきました。どのパソコンもみんなず いぶんとお行儀がよくなって信頼できるよ うになってきました。要するに、ビジネス でも十分に使えるようになってしまったの です、残念ながら。

 ビジネスで使えて稼げる優等生というイ メージのマシン、それと対極にあるパンク なイメージのあるマシンというものがある のならば、それは僕にとってはマックの出 る前のあのApple IIです。お金をきちんと 稼ぐことができるどころか、次の瞬間に何 をしだすのか予測もできない荒らくれ者、 それがApple IIでした。

 ソフトウェア的にアクセス制御されてい るディスクがクイックイッ、ガーガーとな ってはあっと驚くようなプログラムが走り 出しました。背中に拡張カードを差し込ん でいくたびに、まるで別のマシンのように 変身してくれました。何枚も挿したカード が、接触不良で動かなくなっても、「エイ ヤッ、動け!」とぐいっと上から両手で押 すとだいたいまたクイックイッ、ガーガー といいながら動きだしたものです。

 色がぼやっとにじんでいた画面も独特な 魅力でした。画像鮮明なフルーカラーより ぼやっにじむ何色かのほうが実際格段によ かったのです。みんなで目をどろどろにし ながら徹夜で遊んだものでした。

 どのソフトも芸術的でした。作った人の アート心がダイレクトに伝わってきました。 プロジェクトを組んで分業しながら完成さ せたものなど芸術ではありませんよね。

 正確に言えば、Apple IIというのは不適 当かもしれません。純正のApple IIは当時 は東レが代理店として扱っていまして、確 か70万か80万もするしろものでした。大学 の研究室にはその純正版がおいてありまし たが、個人で買うのはモノ好きで、しかも よっぽどの金持ちだけだったのです。

 僕らのもっていたのは正式名称(?)「ニ セApple」です。基盤、これは確か香港か 台湾製だったと思いますが、これを買い、 次に部品を買います。Apple II用の部品が セットにされて売られていました。最後に ケースを買えば準備はOKです。ケースもも のによって微妙に異なっており、これは純 正に近い色をしているとか言いながら買う のです。

 そして、あとは部品を一個一個半田付け していけばよいわけですが、そう簡単でも ありません。特に画面出力の信号を作ると ころなどはアナログですので、微妙な調整 が必要でした。僕はかなり苦しんで完成さ せましたが、先輩のおかげで10数万の出費 をパーにしないですみました。

 もともと、スティーブという同じ名前を もつ2人のヒッピー野郎がガレージカンパ ニーを作って売り始めたApple IIのそのま た海賊版ですから、本当に怪しげなパンク なマシンでした。しかし、僕達を魅惑しま くってくれたのです。

 Apple IIのその魅力が薄れてきたのは、 現在のExcelやLotus1-2-3の先駆けであ るVisicalcがApple IIで普及してしまっ たころからでしょうか? 確かに「これは 商売に使える」ということをわかりやすく 教えてくれるソフトでした。

パンク野郎ここにあり

 ずっと隠していましたが、もうばらしま しょう。僕はパンク野郎です、実は。パン クとは何かということはおいおい考えるこ とにして、僕が正真正銘のパンクであると いう例をとりあえず2つほど示すことにし ましょう。

 1つめは結婚パーティの例です。おえら いさんを招待して話しを聞かされたり、堅 苦しい披露宴をやるのがいやなので、式は 外国で当人だけ行ないました。ここまでは よかったのですが、やはり、友人知人たち を集めて何かはやらなくてはなりません。 ということで、もちろん、パンクバンドを 呼んでただただ演奏してもらったのでした。  これがまた実に不評で、「もっと静かに 話したかった..」という不平でブーブーで した。何割かの人は喜んで酒を飲みながら 踊り狂ってくれましたが。

 2つめの例はパンクの精神にも触れると てもよい話です。ぼくは、いうまでもなく パンクバンドであるセックスピストルズや クラッシュなどに狂っていました。ピスト ルズ解散後にジョン・ライドン(自殺した のはただのチンピラのシド・ビシャス)が パブリックイメージリミテッド(PIL)と いうバンドを結成しまして(ピストルズ時 代よりもはるかに素晴らしい音楽でした、 初期には)、そのPILが日本に来るという ので、僕らパンクスはとんでもない格好を してコンサートに行ったのでした。

 僕のそのときの格好というのが、パンク とは何であるか?というまじめな議論のも とに決まったものです。重要なことは、パ ンクという名前のついたファッションがイ ギリスなどから流れ込んでいるが、あんな ものはパンクとは程遠い単なる浮ついたフ ァッションにすぎないということです。

 そして結局、今この日本でパンクにふさ わしいのは、地下足袋(じかたび)である ということになって、僕がはかされたので した(喜んでいたが..)。もちろん、髪を たてたりとか、その他の部分はそれほどオ リジナルなものではありませんでしたが。

にせパンクに見せつけろ!

 パンクとは何かと定義するのはもともと 難しい話なのです。パンクということばは、 あるものやことがらやスタイルなどを指す のではなくて、何か既存のものを壊し変化 させるパワーそのものを意味しているので すから。したがって、パンクとはこういう 服を来てこういうことをして..、とことば で定義できるようになってしまった瞬間に それはパンクの説明になっているどころか、 もはや、その説明によって定義されている ような概念そのものがパンクの攻撃の対象 になってしまうのです。

 イギリスで発生したパンクは比較的わか りやすいものでした。暗い世の中で失業し た若者の怒り、既存の体制への反発が、パ ンクバンドという音楽や反抗的なファッシ ョンになりました。その担い手や取り巻き たちをパンクとよんだわけです。

 とにかくお先真っ暗で行き詰まってしま った若者たちが現状打破のために行うパー フォーマンス、激しい攻撃のことば、一本 調子のリズム、たてノリ系の踊り、そして、 つば、へど、やく、血などが渾然となって、 壮絶な空間、そしてムーブメントが成立し たのでした。

 主に政治的な怒りでしたので、無政府主 義思想(アナーキズム)ときわめてよくマ ッチングして、ムーブメントは加速されま した。1975年11月にピストルズの初ライ ブが行なわれて翌76年の正月にはもうロン ドンのライブハウスはもうパンク1色だっ たというから驚きです。もちろん、レコー ドなどは出るのはそれより後です。

 アナーキズムという思想自身は若者にと っては手頃で何となく格好よさそうだとい う程度のものでした。パンクたちはその思 想をよく知っているわけではありません。 ピストルズの最大のヒット曲にもあるよう に、”こ〜ず、あ〜い、うぉなび〜、あな き〜ぃあ〜”(アナキストになりたいよ〜) というような漠然とした願望だたのです。

 実際のところ、怒りは商売になります。 どぶねずみのような若者の怒りは、流行の ファッション、あるいは、キャッチーな音 楽ということで世界中に広まりました。も ちろん、日本にも上陸しました。しかし、 そこに上陸したものは、これがパンクとい うファッションだという表面的な形式だけ です。

 そのような固定された形式に満足してい る「にせパンク」に対しても僕ら真のパン クの怒りは向けられます。そして、これこ そが我々日本人としての今のパンクだとい うことで、コンサートに集まった「にせパ ンク」に見せ付けるために、恥ずかしいの をがまんして地下足袋を履いて行ったので す。

 そうはいうものの、パンクなんて所詮、 子供がいやだいやだと言っているのと何も 違わないのではないか?と言われれば、ま あその通りでしょうということです。きわ めて、基本的でしかも普遍的な感情の発露 がベースとなっています。

 しかし、子供の単なる反抗というだけで は、それぞれの人の個人的な怒りという枠 に留まるのですが、何らかの方向性が具体 的にその怒りに合わさるとはじめてそこに 大きな流れ、大きなムーブメントが作られ、 その結果として、社会のいろいろなところ にその影響はしみわたっていくのです。

パンクはどこに行く?

 最近はいわゆるパンクファッションやパ ンクミュージックにのめりこむようなこと は僕はなくなってきました。なぜかといえ ば明らかでしょう。僕の定義によれば、20 年近く前に起こったパンクという形式やフ ァッションが、現在もまだパンクであるわ けがないのです。

 そして今、何をやっているかというと、 計算機アーキテクチャだとか、人工生命な どの研究をやっています。大きな変貌をと げたのでしょうか? いいえいいえ、まだ まだ僕は自分のことをパンクだと実は思っ ているのです。

 パンクは何か現状を打ち破る革新的なも のと結び付いてはじめてそのエネルギーが 満ち満ちてきます。その新しい何かが僕が 目指しているほうにあるのではないかと考 えているのです。
 パンク、カウンタカルチャ(反文化)〜> 計算機関連の領域
という流れは確実にあると思っています。 人の流れもそうですし、思想的な流れも少 なからずあるでしょう。この流れが明確に なってきたのは、1980年前後です。

 ちょうど計算機の領域のほうでも、中央 に一台メインフレームコンピュータが鎮座 して、そのまわりに端末が並ぶという中央 集権的な形態から、ワークステーション群 が分散してつながれるというアナーキーな 形態に移り出した時期と符合します。この 流れにおいて、Apple IIの存在が決定的な 意味をもったことは疑いのないことでしょ う。

 パンクというムーブメントがそこにおい て何と結び付いてきたのかということをも う少しはっきり言いましょう。要するに、 次のような方向性をもつ道です。これが 我々の前にさーっと開けてきたというわけ です。まず、もっとも目の前に見えている のが、いわゆる双方向マルチメディア通信 (マイクロソフトのドラゴンとか)であり、 そのずっと先には人工生命や知能機械があ り、さらにずっと先にはいわゆるサイバー パンクのような今ではまだSFの物語として とらえられている領域があると言いたいの です。

 この道はきわめて革新的なものですから、 無数の障害物が大きくたちはだかっていま す。それをパンクのエネルギーは鮮やかに そして過激にとっぱらっていってくれるの ではないかと思われるのです。

35本骨折したときの夢

 人工生命なんてのはずいぶんとパンクだ と思います。たまたま現在の形をとってい る人間なんてのは横に置いておいて、もっ と本質的なところにある「情報そのもの」 を相手に使用というのが基本的な立場なの ですから。情報=生命ですよ。どうなんで しょう、海千山千の世界のように思われる のではないでしょうか?

 このあいだ本連載でも紹介しましたが、 僕がやっているランギーモデルもとりよう によってはずいぶんと過激な話です。生命 とか知能とかのほとんど氷山の一角もわか っていないうちから、言語が発生するだの、 これが方言だなどと言っているのですから。

 しかし、確実に何かが人工生命ムーブメ ントの中で起こっていると確信しているの か、単なる興味半分かわかりませんが、い ろいろな人々が注目してくれます。ランギ ーモデルは、日経産業新聞の5月10日付の 「先端技術」という欄で5段にわたって紹 介されました。

「生物進化過程の言語発生を模擬」

とバーーンと紹介されているのです。記事 の内容的には、「あー、あまり記者さんは 理解してくれなかったなー」という感じで すが、まあ雰囲気はそこそこ伝わっている と思います。

 パンクにはジョン・ライドンがいました が、人工生命にも教祖はいます。それが Langtonです。人工生命に関するワークシ ョップを1987年に開いて今日の流れを作っ た彼もなかなかのパンクのように思えます。

 ロックバンドを作りたかった彼はベトナ ム戦争に行くのを拒否して、病院で死体運 搬の仕事をしていました。あるとき、死体 がいきなり立ち上がり絶叫しながら走り出 したのを見てその仕事をやめたなどと冗談 半分で言っています。

 また、ハングライダで35本骨を折り肺に 穴を開け顔をつぶして、入院中の半分意識 のないときに、生命のパターンのようなも のを見てそれから」人工生命に対する思い が固まっただの、いかにも「教祖さまー っ!」という感じです。

 不況の昨今、まるでこの世離れした人工 生命の研究ができるのは実にありがたしと 思って、毎日小汚い、ほとんど「監獄」の ように汚い(これは本当にここに来たお客 さんに言われたことばです)建物の中をゆ っくりと歩いています(廊下が狭すぎて角 で人とぶつかるので)。

 「いやーそれにしても、パンクでもそれ なりに生きていけるのだな(実感)!」