知能機械概論-お茶目な計算機たち

第36回
ノスタルジアという病

日本全体がレトロ

  激動ということばがまさにぴったりなであった 1989 年も、過ぎ去るときはいつもの年のように大急ぎでして、いとも簡単に1990 年にバトンを渡してしまいました。そして、未曾有の 1990 年に突入したなと思ったら、そこはいつもの正月でした(当たり前か)。僕も、正月はあっちこっちに行ったとはいえ、まあのんびりぼんやりとすごしました。

 年末から正月にかけて、テレビなどをいろいろ見ているうちに、しだいに印象が強まってきたことがあります。それは、「日本だけはなぜかノスタルジアだな」ということです。昨年一年間を振り返るという企画がマスメディアでは例年のように盛んでした。世界ではいろいろな激動が起きているのですが、今の日本にはそれどころか、どうも昔の時代に対する懐かしさ、あるいは回帰志向らしきものが、満ち溢れているような気がするのです。

 手元にある英和辞書でも英英辞書でも、ノスタルジア(nostalgia)ということばの最初に出てくる訳は、単なる郷愁というほうではなく、懐郷(郷愁)病のほうです。病気なのです。この病気について、つれづれに書いてみたいと思います(また、アーキテクチャの話が流れてしまった)。

イカ天大賞の「たま」

 「イカ天(イカスバンド天国)」という番組(正式には平成名物テレビの中のコーナー)がおもしろいと、この連載でもだいぶ前に思わず書いてしまったことがあります(ネットワークがない地方のかたには申し訳ありません)。その番組もついに「イカ天大賞」なる特別番組を正月2日にやるまでになってしまいました。ビデオにとってまで見てしまったのですが、やはりわくわくしました(編集などは最悪であったが)。とくに、最初にこの番組に登場した瞬間からはまってしまったバンド、マルコシアスバンプも期待どおりでした。

 まあそれはちょっと置いておくとして、放映されたイカ天大賞で、グランプリを取ったのは、たまというグループでした。このグループのユニークさには、近来まれに見るほどの圧倒的なものがあります。一度見たらあなたも忘れられなくなると思います。登場したバンドの中でもいちばんの人気でした。そして、順当にグランプリをとったわけです。

 ところで、このグループの魅力も、やはり僕には基本的には懐かしき良き時代に対する郷愁につきると思われます。その時代をすごさなかった若いひとたちをも同様にひきつけたのがこのグループの決定的なところなのでしょう。実は何回も、このビデオを見たのですが、だんだんと、最近の日本の人々の心を捉えているのは、意識的あるいは無意識的にせよ、ノスタルジアではないかと、はっきり思うようになったのでした。

元号の変化の意味すること

 ほかにも、いくつか実例をあげるとしましょうか。一番直接的なのは、歌謡曲やアニメーションのリバイバルブームがあげられるでしょう。南沙織、井上陽水の曲や秘密のアッコちゃんとか、いろいろありましたね。

 少し間接的なものになると案外いろいろなところに散らばっています。ただし、必ずしも多くの人の意見の一致が得られるかどうかはわからないところもあります。たとえば、最近の日本の文学を例にとってみましょう。全体的には停滞傾向にあります。でもごく一部、そう、村上春樹らの作家は爆発的に売れまくっています。

 僕も村上春樹の本は少なからず読みました。そして、たったのひとことですべての本について語るという無謀なことをあえてするならば、彼の本にはすべて、ある種の懐かしさ(落ち着ける場所への憧れとでもいいますか)に源を発するイメージが、色濃く漂っています。だからこそ、今日のような村上春樹現象を起こしているのだと僕には思えてなりません。

 また、美空ひばりに関するブームを異常なほどでした。特に美空ひばりを昭和史とからめて振り返る企画が多すぎて、さすがに閉口してきました(でも小さいときは何度見ても魅力的であった)。

 おおもとはやはり、昭和が終わったということが、それまでの何らかの動きと一体となって大きな流れを形作ったということなのでしょう。日本独自の「元号」というものに基づいた、人々の気持ちの繊細な動きなのでしょう。でも、まあ、よその国の人には、あまり理解しやすいものではないかもしれません。国中にノスタルジアが漂っているのを外から見たらどんなものでしょう。

そう後ろばかり見ていては

つい 2,3 日前、細野春臣がNHKで番組をやっていました(「熱砂の響き・細野晴臣の音楽漂流」)。最近流行りの(よく知らないが)ワールドミュージックを題材としたものだと思います。そして、番組の中で彼は、「スローバック」ということばを持ち出していました。砂漠に戻る、プリミティブなものに戻ることに惹かれるのだそうです。

 僕は、「またこれもノスタルジアだなあ」と思って見ていたのですが、極めつけが、番組の最後に文字となってはっきり登場した、次のような言葉です。

「そしてリズムは先祖がえりのガイドである」

 うーむ、救いようもなく逆流しているような気がします。別にノスタルジア自体には何の恨みもありませんが、このように、世の中全体が後ろを振り返り出しても、そんなにいいことがあるとは僕には思えません。たとえどんなに「たま」がすばらしくても、イカスバンドといえばマルコシアスバンプなのです(このバンドも実はレトロともいえるが)。

 おっといかん、とにかく、まあ正月にはそう強く感じていたのでした。そして、テレビのキャスターたちが必ず話す、「昔のものが、今の若い人達に新鮮に感じられるのですね、不思議なことに」ということばにも嫌気がしているのです。

 時間の流れは直線的ではなくて、何度も繰り返すだけということは、まああまり興味深い話ではありません。あまり明るい話ではないですしね。車椅子の天才ホーキンスが主張する、「宇宙を構成する各次元の中で、時間軸だけが一方向に進むのはおかしい、ある時点から逆方向に流れ始めるはずだ」という刺激的な話に比べれると、それこそ次元が違うようですね。

シナプスの叫びと快感

 正月気分も抜けそうになったころ、僕は昔のごたごたを整理しなくてはならなくなり、山のような分量のパソコン関係の本やソフトなどをかき回してきました。そして、10年たらずの間のパソコンに関する技術や取り巻く環境の変貌に驚くとともに、何とも言えない懐かしい気持ち(ノスタルジアそのものだ)を味わいました。

 まあ個人的な話ですのであまりここではいいませんけれども、ちょっとだけあげてみましょうか。たとえば、昔のいろいろなソフトウエア(ずいぶん原始的なゲームもありました、とひとごとのように思います)、一番最初のころのなんと数十ページという薄さの I/O 誌、苦労して作ったLOGO言語のマニュアル、... などなど、果ては、恥ずかしげもなく PC がいいか MZ がいいかという座談会に出ている自分(当然僕は後者として参加)。うーむ。

 ノスタルジアの泥沼にはまりそうなので、ここで一気に、ノスタルジアの原因について、流行りのニューロンネットワークで、ちょいと気まぐれな説明をしてみましょう。なぜ昔の古い記憶が蘇るとうれしいのか?ニューロンネットワークの立場から考えると、これは案外当然のことなのかもしれません。

 ここで、記憶というものは神経細胞間にあるシナプスに関する結合の強さ(俗にシナプスの太さ)そのものであるという立場をとります。そして、神経細胞の興奮パターンを再現すること、つまり想起によって、そのパターンをシナプスは学習し、その結合は強くなっていきます。逆に時間がたつと、その結合は弱まって(細くなって)いくのです。

 ですから、ノスタルジア、それは、忘れさられそうなシナプスの「私のことを忘れてくれるな」という悲痛な叫びなのであります。ですからこそ、昔のことをまた思い出すときには、また再び思い出してくれというために快感信号を体に流すというわけなのです。

アーキテクチャにおけるブーム

 正月が過ぎるとまた、マックやワークステーションなどに囲まれて、計算機アーキテクチャなどについて考える生活に戻ります。計算機などというと、ノスタルジアのような、人々の気持ちに密接したものからはまったく無縁の世界であるとも思われがちです。でも、計算機の世界の深いところでも浅いところでも、意外と(あまり適切な表現ではないが)どろどろとした部分があるものです、まあそれがおもしろいのですが。

 ブームというものも確かに存在します。プログラミングパラダイムにおけるブームも激しいものがありますし、今はおさまってきた RISC 対 CISC というのもあります。そういえば、RISC 対 CISC に関して、日経エレクトロニクスにヘンなことが載っていました。

 RISC はそもそも複雑化する一方のプロセッサアーキテクチャに対する警告とでもいうべき意味合いがあったのですが、最近では RISC に基盤は置きながらも、より複雑なアーキテクチャを目指すアプローチが目立ってきました。これをたぶんとらえて図にしたのだと思いますが、CISC 対 RISC の動向が波線で書かれているのです。つまり、CISC が主流になったり、RISC が主流になったり、交代に進んでいくというのです。どう考えても、こう決め付けて図にするには、根拠が薄すぎるように僕には思えます。いまもってわかりません。ノスタルジアとまではいいませんが、人々の気持ちにおけるブームの加熱とそれに対する反動が繰り返されるというのではないですよね。

 僕が尊敬する映画監督タルコフスキーはその名もまさに「ノスタルジア」という映画をとっています。彼の他のすべての作品と同じように一筋縄でないこの作品において彼は、単にノスタルジアを映像的な美しさで表現しているだけではなく、祈りをこめつつも、病いとしてのノスタルジアに対する批評的な視線を確実に向けています。

 たぶん僕はこの映画からずいぶんと大きな影響を受けてしまったのでしょう。

参考文献

"1990 年代のエレクトロニクス:やわらかいコンピュータの時代へ"、日経エレクトロニクス、No.488、pp.143-194 (1989).

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